



| 日本史 | マカオ史 | 西洋史 | |||
| この頃、戦国大名の間で南蛮ブーム | 1576 | マカオ司教区開設。日本も属する。 | |||
| 1582 | 天正遣欧使節団マカオへ出発。本能寺の変 | 1580 | スペイン、ポルトガル統合 | ||
| 1587 | 秀吉がバテレン追放令 | 1588 | 遣欧少年使節、帰国途中にマカオに寄る | 1588 | 英国、スペイン無敵艦隊を敗る |
| 1597 | 秀吉、26人の宣教師死刑 | ||||
| 1600 | オランダ船漂着。関ヶ原の戦い | 1600 | イギリス、東インド会社設立 | ||
| 1602 | 聖ポール天主堂建設開始 | 1602 | オランダ、東インド会社設立 | ||
| 1612 | キリスト教禁教令 | 聖教会完成 | |||
| 1614 | マカオへ日本人キリシタン亡命 | ||||
| 1622 | オランダの攻撃を受けるが撃退 | ||||
| 1639 | 鎖国令。ポルトガル人居住・来航禁止 | ||||
マカオとの貿易は、ポルトガルを中心とする多くの西洋文化を日本にもたらしました。パン、テンプラ、カステラ、ビスケット、ボタン、マント、ズボン、カッパ、タバコ、シャボン、カルタなどもポルトガル語が由来です。しかし文化的な影響力という意味では、この時期急速に浸透したキリスト教が最も大きな存在といえるでしょう。
その影には、ザビエル以後日本を訪れた多くの宣教師たちの姿がありました。
中でもキーパーソンといえるのが、イエズス会宣教師のルイス・フロイス。語学と文筆の才能に秀でていた彼は、1563年に日本での布教活動を開始。幾多の困難を乗り越え、のちに京都地区の責任者となります。
転機が訪れたのは1569年、仏寺の勢力拡大に業を煮やしていた織田信長が入京した際に対面し、まもなく信任を得て畿内での布教活動を許可されます。信長はこの後来日したオルガンティノら宣教師たちを厚遇、信者の増加とともに南蛮寺や礼拝堂、神学校が設立されるなどキリスト文化は全盛を迎えます。
日本および中国、近隣の島々を管轄したマカオ司教区が開かれたのもこの頃でした。
ちなみに、フロイスはその後宣教の第一線を離れ、イエズス会の活動記録を残すために日本全国をめぐって見聞を広めました。それは、西洋から見た史上初の日本の記録『日本史』(Historia de lapam)として編纂され、日本におけるキリスト教の発展と衰退や当時の戦国武将の様子を今にいきいきと伝えています。
本題に戻りましょう。
日本がマカオ司教区に属したことで、キリスト教を通じた交流はいっそう密になりました。1580年には、のちの聖ポール天主堂の創建者であるイエズス会の司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日し、織田信長やキリシタン大名の大友宗麟、大村純忠などに日本人司祭の育成を訴えます。そして、このヴァリニャーノの発案により、日本人4少年を遠くローマ教皇まで派遣する天正遣欧少年使節(1582~1590)が実現したのでした。史実では、この4人(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ)が、マカオ、リスボン、ローマに初めて足跡を残した日本人とされています。
しかし8年ぶりに帰国した彼らを待ち受けていたのは、秀吉によるキリスト教徒迫害の波でした。その流れは徳川幕府になって激しさを増し、焚書、禁教令、宣教師やキリシタンの海外追放、処刑といった包囲網が彼らを襲います。そして、少年使節だった原マルチノほか、耐えかねた多くのキリシタンは新天地を求めマカオに移住し、聖ポール天主堂ほかマカオの街づくりに従事したと伝えられています。
1639年、徳川幕府は鎖国令を発令し、ポルトガル船の来航を禁止。
布教活動を伴わないオランダおよび中国とのみ通商を開始しました。ほぼ1世紀にわたる日本とマカオ・ポルトガルとの関係はここから冬の時代を迎えるのです。














































































































