



| 日本史 | マカオ史 | 西洋史 | |||
| 1640 | 聖ポール天主堂完成 | 1640 | ポルトガル王国復活 | ||
| 1644 | 清朝による中国支配開始 | 1641 | マラッカ陥落 | ||
| 1687 | 5代将軍綱吉、生類憐みの令発令 | ||||
| 1720 | 江戸大火 | 1723 | 清朝、キリスト教を禁止 | ||
| 1757 | 清朝が鎖国。マカオ再興へ | 1755 | リスボン大地震 | ||
| 1762 | イエズス会をマカオから追放 | ||||
| 1787 | 寛政の改革(松平定信) | 1789 | フランス革命始まる | ||
| 1803 | アメリカ船が長崎来航、貿易を要求 | 1808 | 英国の攻撃を受ける | 1804 | ナポレオン、フランス皇帝に就任 |
| 1832 | 天保の大飢饉 | 1835 | 聖ポール天主堂火災 | ||
日本とポルトガルの断絶、それは日中間の中継貿易に大きく依存していたマカオ経済に打撃を与えました。また、1640年に本国ポルトガルはスペインとの併合関係を解消して王国を復活させましたが、結果としてスペイン領マニラとの貿易関係が途絶えていきます。さらに1641年、東南アジアの拠点であるマラッカがオランダ東インド会社に占領されたことで、ポルトガルの東方貿易および布教の最大拠点ゴア(インド)とマカオを結ぶルートが絶たれました。
このように力をつけた新教国の覇権や国際環境により、マカオは次第に衰えていきました。
ちょうどこの頃、マカオのシンボルである聖ポール天主堂が約40年の歳月をかけて完成しました。
当時アジアで最も美しいと言われたイエズス会布教の殿堂は、皮肉にもマカオが衰退し始めるタイミングで完成したわけですが、教会としての機能はわずか120年余という短いものでした。ポルトガル国王の暗殺計画に加担したとして、本国のイエズス会は1759年に追放。マカオのイエズス会も1762年に追放され、聖ポール天主堂は没収、マカオ市政庁の直轄となった後は兵舎として利用されたのでした。
さて、マカオの経済はいったんは停滞するものの、清朝の外交通商政策によって再び繁栄の時が訪れます。
1757年、イギリスやオランダなど列強の外圧に耐えかねた清朝は鎖国を打ち出し、西欧諸国との貿易を広州に限定、しかも冬の貿易シーズンしか広州への滞在を認めませんでした。そこでヨーロッパの商人たちは、次の交易が始まるまでの夏の期間を広州に近いマカオで過ごすようになりました。
こうしてマカオに再び賑わいが戻ってきたのです。
ただし、ポルトガルは中国との貿易において、もはや過去の特権的な立場はなく、マカオにおける繁栄の主役はヨーロッパへ茶を輸出するイギリス、とりわけイギリス東インド会社に移っていたのでした。












































































































