



| 日本史 | マカオ史 | 西洋史 | |||
| 1837 | モリソン号事件 | 1840 | アヘン戦争(~42年) | ||
| 1841 | 天保の改革(水野忠邦) | ||||
| 1842 | 異国船打払令の廃止 | 1844 | 観音堂で清米友好通商条約調印 | ||
| 1847 | 賭博の合法化 | アイルランドでジャガイモ飢饉。移民急増 | |||
| 1849 | ポルトガル、マカオの地代支払いを停止 | ||||
| 1853 | ペリー、マカオ経由で浦賀へ来航 | 1853 | クリミア戦争勃発 | ||
| 1868 | 明治維新 | 1861 | 米で南北戦争 | ||
| 1889 | 大日本帝国憲法発布 | 1887 | ポルトガルの永久統治合意 | ||
反面、イギリスから中国へ輸出できる製品はほとんどなく、イギリスは大幅な輸入超過に陥ります。このためイギリスは1780年代以降、植民地のインドで栽培したアヘンを中国へ密輸し始め、貿易の均衡を保とうとしました。
中国ではアヘン吸引の悪弊により風紀が乱れたのはもちろん、貿易の対価として支払う銀の流出により、経済圧迫や社会不安が高まりました。
これに対し、清朝はアヘン密輸の取締官として林則徐を任命します。
マカオにも視察に入った林則徐は商人たちにアヘンを今後持ち込まない旨の誓約書を出させる一方、1839年、イギリス商人が持っていたアヘンを没収して廃棄しました。
誓約書を出して貿易を継続する商人もいましたが、イギリス側はその動きを阻止。強行に禁輸の解除を清朝に要望しますが、林則徐はこれをはねのけました。
こうして1840年にアヘン戦争が起き、イギリス艦隊の圧勝で戦争は終結、イギリスは香港を手に入れます。
天然の良港を持つ香港に対して、珠江の土砂堆積で港湾機能が低下したマカオ。当時のイギリスの国力も後押しして、香港は国際貿易拠点として急成長しますが、逆にマカオの地位は相対的に下がっていきました。
さらに列強各国の植民地化の動きがマカオにも襲いかかります。
1849年、ポルトガルは長年続いていたマカオの地代支払いを停止。
1887年には清朝とポルトガルによる通商条約で、マカオの永久統治が合意。マカオは正式にポルトガルの植民地となったのでした。
さて、香港に主役の座を譲った後のマカオは、西欧列強の外交官や商人の社交場やリゾート地としての様相を呈していきます。収益基盤として賭博が合法化されたのもこの頃。
リゾートのマカオを知る史実として日本人にとって印象深いのは、1853年に浦賀へ来航し開国を迫ったペリー提督のマカオ上陸でしょう。
黒船艦隊は日本からの帰路にマカオ沖に停泊し、ペリーは上陸して約3週間滞在しました。
ペリーは『日本遠征記』の中で、「絵のように美しい郊外は興趣に充ちており、街には愉快な外国人達の社交界があった。人の心をひくものが多かった」とマカオについて記しています。
往時の勢いはないものの、中世の街並みと豊かな自然の中に癒しを求めて人々が集う、いにしえの街。そんなマカオの風景を想像することができます。














































































































